帰国後の野生司香雪と信州・長野県 (2/2)

長野・善光寺の雲上殿の壁画

 昭和15年(1940年)、野生司香雪は長野市の善光寺雲上殿(納骨堂)の壁画制作を依頼され、準備に取り掛かりました。昭和18年(1943年)に香雪は単身で長野に移り住み、昭和22年に雲上殿の壁画を完成させます。香雪62歳の時のことです。昭和27年に山ノ内町渋温泉の不動山荘で約20年間を妻とともに過ごし、昭和48年に88歳で病没します。その間に、昭和23年に香雪は生まれ故郷の香川県に発足した香川美術会の会員になり香川県にも多くの作品が残されていますが、在住していた長野県内にも沢山の作品が残されている理由がこれでよく分かります。

 「牛に引かれて善光寺参り」は古くから伝わる有名な逸話ですが、インドの聖白牛を善光寺に招来する計画が持ち上がり香雪はこれに協力しました。ビルラ財閥の支援もあり、仏教渡来千四百年の年(昭和26年)に3頭の白牛が横浜港に上陸、上野動物園(検疫)の後、浅草浅草寺までパレードをして一般に公開。その後上野駅から信越線で小諸駅まで移動、布引観音に到着。そこからはトラックに乗り換えられ、大歓迎を受ける中を長野市に到着しました。翌年、日本美術院同人の奥村土牛が白牛を訪ねてきたが、香雪は宿舎の世話をするなど応接しました。奥村土牛が描いた「聖牛」は院展に出展され、それが土牛の代表作の一つとなりました。

善光寺の雲上殿   

                           右の写真は壁画「善光寺縁起」の一部です。

写真:案内板によれば、雲上殿の完成は昭和24年とありますが、香雪の描いた壁画の方が早く完成していたようです。仏画家の野生司香雪による善光寺縁起の壁画が描かれていることが和英文で記されています。

ヴァルマ駐日インド大使、善光寺をご訪問

サンジェイ・クマール・ヴァルマ駐日インド大使閣下、グンジャン・ヴァルマ大使夫人、並びにヴィヴェーカナンダ文化センター所長シッダールト・シン教授が長野市の信州善光寺を参拝されました。

2021年5月19日 

インド大使館FBにリンク

 昭和61年1986年)に本格的な図録集「野生司香雪 仏教の世界」を刊行したことのある有力な地方紙・信濃毎日新聞は、四国・香川県の野生司香雪画伯顕彰会がインド・サールナートの壁画修復事業をスタートさせることを紹介しました(2019年4月13日)。この記事の中に、香川県出身の野生司香雪が長野県と深い関りを有していたことが簡潔に記述されています。この完全な形のコピーが欲しい方は、信濃毎日新聞社(長野市)にお問い合わせください。

 その頃ちょうど、10月末のインド大使館講堂での「野生司香雪フォーラム」開催の準備を本格的に始めました。そして11月末から約20日間、第1期修復工事を実施しました。

信濃毎日新聞にインドの壁画修復事業のことが紹介されました。

長野市篠ノ井 龍眼山圓福寺の野生司香雪の作品

 長野県上田高等学校関東同窓会の白井透先輩(60期)が、信州にかかわりのあるお話だからと、野生司香雪画伯のことを上田高等学校の藤本光世元校長にご紹介いただきましたところ、なんと先生がご住職をされている長野市篠ノ井の曹洞宗 龍眼山圓福寺(⇦ここからリンク)に先代のご縁で野生司香雪画伯の作品を保有されているとのご連絡をいただきました。「天女」と「鳳凰」の天井絵が2枚、サールナートの壁画のミニ版ともいえる「釈尊一代記」の額縁に入った絵が7枚ありますとの事で、ここにご紹介させていただきます。これも仏縁であると、新たなご縁が広がりましたことを心より感謝申し上げます。

それにしてもなんと美しい天女でしょう。まさに作者・野生司香雪のピュアな心を表しているものと思われます。

「悲しみのヤショーダラ妃」の屏風絵

 

 

 

野生司香雪のサールナート仏伝壁画の下絵を曹洞宗大本山永平寺に献納するのを仲立ちした長野市の昌禅寺に、野生司香雪作の「ヤショーダラ妃」の屏風絵が残されているとお聞きしました。

 

この屏風絵の写真は溝渕茂樹氏から提供してもらいましたが、信濃毎日新聞社刊行「野生司香雪作品図録」にも掲載されています。

 


信州渋温泉 不動山荘を訪ねる(2021年10月3日)