野生司香雪とサールナート釈尊一代記の壁画

はじめに

 

なぜ「インド・サールナートの野生司香雪画伯の壁画修復」に関わっているのか・・・・

 

インド・サールナートの仏教寺院の壁画保全修複に、なぜ宮原君は関わっているのか、たまには「お前にしてはいいことをしているなぁ」と誉めてくれる方がいないではないですが、大多数の人たちは信仰心と無縁で文化活動も門外漢の俗人がなぜこのプロジェクトに関わっているのか訝しく感じているようです。しかし、ある時から仏縁に導かれてプロジェクトに関わることになり、「野生司香雪」を通して「縁」が広がっていることを感じます。自分のホームページを立ち上げるに当たりこのように言い訳から始めますが、このホームページを眺めると多少ご理解いただけると思います。

 

さて、仏教生誕の地インドでは、日本に仏教が伝えられた頃には仏教は衰退していました。そのインドのガンジス川沿いの古都ヴァラナシ近くのサールナート(鹿野苑)の仏寺本堂に日本人画家が描いた「釈尊一代記」の壁画があります。ここはブッダガヤで悟りを開いたブッダが初めて説教をした地として知られています。日本の明治時代にインドでセイロン(現在のスリランカ)生まれの仏教徒ダルマパーラにより仏教再興運動が始められましたが、昭和初期にこの地に建立されたばかりの寺院に壁画を描いてほしいと日本側に要請が寄せられました。そこで派遣された日本人画家の野生司香雪は足掛け5年の歳月をかけて1936年(昭和11年)に、高さ4㍍、長さ44㍍の壁画を完成させました。この壁画はお釈迦様の生涯を分かり易く紹介していることで世界中から訪れる仏教徒や観光客に知られていますが、完成後80数年を経た現在何ヵ所か剥落が生じているために保全修復をすることが急務となっています。仏教を通して何世紀にもわたりインドから受けてきた恩に報いようと精進・献身した日本人画家・野生司香雪の意志を受け継ぎ、インドにある日本人の描いた貴重な文化財を後世に残そうと、先ずは香雪の生まれ故郷である香川県の人々が「野生司香雪画伯顕彰会」を立上げて、具体的に行動を起こしました。

 

そんなある日に筆者が勤務していた日印協会に、それは2015年か2016年だったと思いますが、野生司香雪研究家の溝渕茂樹先生(香川県出身で香川県文化会館前学芸員・徳島文理大学講師)が、戦前の日印協會會報に野生司香雪の投稿している記事があるはずなので探してほしいと訪ねて来られました。野生司香雪をサールナートの壁画揮毫の画家として人選し、インドに派遣したのは日印協會でした。香雪自身が制作途中の経過や完成した後にも多くの記事を會報に寄稿していて、それを読むと当時の様子が生き生きと蘇ってくるのでした。その時に溝渕先生にお会いしたのを縁に(これこそ私にとって最初の「仏縁」でした)野生司香雪画伯顕彰会会員の末席に名を連ね、事務局長の溝渕先生の東京での連絡員的な仕事をすることになりました。

 

顕彰会は保全修複に対するインド大菩提会(仏教会)の要請を受けて、東京藝術大の木島先生に総合監理を依頼し、寺院絵画の修復などを手掛ける京都の専門会社の協力を得て、サールナートの初転法輪寺本堂の壁画三面を3年かけて(3回)、毎回日本から技術者6~7名を(約3~4週間)インドに派遣するという保全修複計画が練られました。必要資金は5000万円が見込まれるが、それをどのように工面するか第1期工事を終えた後の今も課題であります。

 

インドにある日本の文化財の保全修復なのだから日本政府(例えば国際交流基金)の支援が得られないか、印日文化交流促進の観点から在日インド大使館を通してインド政府に何らか財政支援をしてもらえないか、等々の可能性が検討されました。しかし、そもそもインド大菩提会というプライベートな宗教団体の所有物の修復に日印両国とも公的資金を使うことは馴染まないとのことから、全てを民間資金で賄うことにしました。そこで故・平山郁夫先生ゆかりの公益財団法人文化財保護・芸術研究助成財団が募金のとりまとめをお引き受けいただくこととなりました。

 

あくまでも「文化財」・「美術品」の保全修復が第一義的な目的であります。インド大菩提会は宗派に関係なくあまねく広く活動する団体ですので宗教色は出さずに、従って日本の仏教界に対しては特定の宗派に偏することなく広く薄く支援をお願いすることとし、野生司香雪と所縁のある人々や寺院を中心に少しずつ協力をお願いしていこうということになりました。以上は、野生司香雪画伯顕彰会の基本的な考え方であり溝渕先生が進められてきたシナリオですが、私はこの話の流れをよく理解することが出来たので、すんなりと協力することになりました。そこで、日印協会のスタンスを説明しておくと、日印の文化交流を支援するのはやぶさかでないどころかどんどん支援したいが、協会として寄付金の募金活動に関与することは一切できないということです。そこで、協会は顕彰会の広報事業のみを後援することになりました。

 

この保全修複プロジェクトを令和元年(2019年)11月末からスタートするのを機に美術・文化・歴史といった学術面を中心とするフォーラムを1031日に東京九段のインド大使館講堂で開催することになりました。それが、添付の案内チラシです。9月初めから約1か月間、チラシの版下作成、印刷発注から発送業務まで多忙な毎日を送りました。このフォーラム開催準備を進めるために溝渕さんの助手としてインド大使館との連絡係を務めることになりましたが、フォーラム開催できたのはDIC(ディスカバーインディアクラブ)の皆さんの絶大なる協力の賜物であります。

 

案内状発送先に香川県とともに何故か信州・長野県の人や寺院が多く含まれていました。それはインドから帰国した野生司香雪は善光寺雲上殿の壁画制作にかかわり、戦後は山ノ内町・渋温泉に住み、昭和48年に88歳で他界するまでそこに住んでおられたこと。だから香雪の後半生のことは長野県に良く知られていることなどを教えられることとなりました。香雪のことを紹介する2019年413日の信濃毎日新聞の記事をご覧ください。思えば私は、信州・長野県に生まれ育ちながら、かつインドに数年を住んでいながら、野生司香雪のことを何も知らなかったです。このように、日印協会で溝渕先生にお会いし、野生司香雪が信州・長野県に深く関係していることを知り、さらに永平寺に保管された壁画の下絵を倉庫から見つけて表装するのに尽力された大本山永平寺の南澤道人副貫主2020年に貫主)は信州生まれの方でした。

 

野生司香雪画伯顕彰会は日本語のホームページを開いておりますが、この仏伝壁画の修復工事がアジア各国(スリランカ、ミャンマー、タイ、ベトナム等々)だけでなくアメリカやカナダ等の仏教徒や、更には文化財保護に関係する方々からも注目されていることに鑑み、英文ホームページを作成しようという話がありました。そこで先ず実験的に私が管理するサイトに「英文ホームページ」を立ち上げることになりました。

日本人の友人・知人への日本語によるメッセージは、野生司香雪画伯顕彰会のホームページを紹介すればよいことではありましたが、香雪が後半生を信州に長く住んでおられたことなど信州との関係などを紹介するために自分のサイトに野生司香雪の項を設けたのですが、和英文を同じサイトにする方が便利なことから、2020年11月23日に英文サイトの後にこれを移動しました。

 


「仏教の聖地サールナートで仏教壁画を描いた

                                                 日本画家・野生司香雪」 

             

         

                                                                         (出所:日印協会月刊インド2017年9月号「様々なインド」)

 

 

 

 

 

 講師:溝渕茂樹氏 (写真:2019年11月第1期修復工事)

野生司香雪画伯顕彰会(⇦リンク)事務局長、

徳島文理大学(香川校)文化財学科非常勤講師(博物館学)

 

 

 

 2017年84日(金)の夕方、『野生司香雪その生涯とインドの仏伝壁画 』(「月刊インド」4 月号で紹介)の著者である溝渕茂樹氏を講師に 迎え、昭和の初め、仏教の途絶えたインドでの仏教復興を願いサール ナートの地に新しく建てられた仏教寺院、初転法輪寺(ムラガンダー クチ・ビハーラ)の堂内に、大画面で力強い仏伝壁画を描いた日本画 家・野生司香雪(のーす こうせつ)について講演いただきました。なお、溝渕氏は画伯と同郷の香川県出身です。

 

【ダルマパーラ居士】  野生司香雪について語る前に、今から130余年前、長く仏教の途絶えたイン ドでの仏教復興を志し、欧米や日本の有志に働きかけ尽力したスリランカ人、 ダルマパーラ居士について紹介。 当初には日本人僧らも賛同協力し、釈尊悟りの聖地に建つブダガヤ大塔の取得 を共に目指すが失敗、その後コルカタでインド大菩薩会(マハボディ・ソサェ ティー)を組織し、さらに釈尊が初めて説法した仏教成立の地、サールナート に米国夫人らの寄付で初転法輪寺を建立。その後、英国人(妻は日本人という) の寄付で堂内に日本人の手で釈尊一代記の壁画を描いてもらおうと考え、1931 年(昭和6)、コルカタの日本国総領事館に協力を要請した。この要請に外務省・ 文部省の担当者が応え、人選が進められた。 ダルマパーラはそれまでにインドでの仏教復興運動のため欧米を回り支援を 求めたが、明治時代の日本に4回訪問、日本側にも共鳴者が出て、ブダガヤ大 塔の中に仏教復興のシンボル、本尊として安置する阿弥陀如来坐像一体を託し たことがあった。仏像安置は残念ながら妨害にあい目的を果たせず、今はコルカタのインド大菩薩会に安置され ている。そんな縁もあり居士は壁画揮毫を、当時近代化を果した仏教国である日本を信頼し、またその芸術、仏 教美術を高く評価して依頼してきた。

 

【野生司香雪が選ばれた背景】 日本側の宗教関係者も参加した人選で、渡印歴も多い日本画家、桐谷洗鱗が選ばれた。 翌年秋に出発する予定だったが、直前の7月に持病が悪化し急逝。後任の人選は難航し途 中から日印協會が任され、本人の強い希望もあり、洗鱗の親友でもある 47 歳の香雪が選 ばれた。 壁画制作についてインド側では詩聖タゴールらの文化人が「釈迦はインド人の伝記では ないか。なぜインド人画家ではなく外国人が描くのか」と反対していたという。しかし、 香雪が面会をもとめて礼を尽くすと、仏教精神や日本もよく理解するタゴールは香雪の出 自からくる仏教への深い関心、造詣や信仰心、日本美術院との縁からか香雪を認めた。

 

 

香雪は 1885年(明治18)高松市生まれ。祖父は浄土真宗寺院の兄 弟弟子としての僧侶、父はその寺の役僧となり、香雪は長男であった。 出自からして仏教美術に関心の強い香雪は、日本美術院で開かれたタ ゴールの講演を聞き、さらにインドに対する親近感を深め、翌年には 元逓信次官の前島密の支援を得てインド仏教美術研究のために渡印す る幸運に恵まれた。時に香雪 32 歳、カルカッタ博物館、サールナー ト等の仏跡を見学、さらに年末にはコルカタで国華社から依頼され、 アジャンタ壁画模写事業の準備中の荒井寛方(横山大観の要請でイン ドの美術学校に派遣されていた)に出会い、その依頼で模写の手伝い に参加するという幸運もあった。インド、仏教への関心が高く、仏教 関係講演会、関連講座に参加するなどし、また仏教美術の研鑽を続け ていた。しかし結果的にそのことが画壇、社会的な立場もしがらみ軽く、後の奇縁によりインドでの大業達成に つながった。

【壁画制作とその苦難~インドにある壁画は世界に誇る日本画の在外文化財】  壁画の制作には、助手として河合志宏(洗鱗の弟子)が協力してくれた。契約した制作期間は半年程だったが、 雨季になると絵具が流れ、また高温で作業が不可能な状態になった。また描いた壁画が変色する事態も発生し、 その対策にも追われたが、使用する材料は、日本の誇りのためとしてすべて日本製を使用した。この壁画は「日 本画」の手法で、日本人画家によって描かれた日本画の独特なものであることも貴重であり、日本の在外文化財 と考える所以である 当初は半年間で予算1万ルピー程の契約で渡航したのだが、乾期、冬の4か月間しか制作できない等のために 滞在期間は足かけ5年、1936年(昭和11 年)まで延びた。滞在費等が不足したために香雪は自分で経費を捻出 するために、壁画の描けない雨季の間に額絵を描き、スリランカやムンバイ、コルカタなどで個展を開き販売。 現地の日本人駐在員の協力や同情に頼って、同胞の協力に感謝しながら何とか成功させて作業を続けた。一方祖 国日本ではなかなか帰国しない香雪の境地を心配して、故郷の母校や淑徳の教え子、全国からの義援金、国際文 化協会の支援金が送られてきたという。 その間、壁画制作が始まって間もなくダルマパーラが出家のために寺にやって来た。そして完成したばかりの 「降魔成道」を見て「素晴らしい」と発し、アジャンタより大きいと喜んだが、その2か月後に亡くなった。香 雪はその間に描く壁画の南北仏伝融合の意義を強く自覚、結果それは世界仏教の仏伝となった。

 

 

【壁画の原状と保全活動の呼びかけ】  サールナートの初転法輪寺の壁画は、仏教徒のみなら ず、日本とインドの双方にとっても、重要な国際文化交 流の記念碑、文化財である。これを今後大切にしない手 はない。インドは、仏教で国を建てた日本の文化、芸術 の母の国といっても過言ではない。そこへの絵を描くこ とによる恩返しだと香雪は語っている。 一般に制作から 80 年も経過すると、経年劣化(変色、 退色、落剝、漏水等)が始まり、この壁画も例外ではな く、看過できない状態になっている。  壁画を所有・管理する初転法輪寺の住職らは、代々、訪れる香雪の精神、技術を引き継いでいるはずの日本人 に壁画の保全を問いかけ続けてきた。香雪の描いた「仏伝壁画」は、仏教四大聖地の一つにあって、今もインド 国内はもとより世界各地から訪れる人々に日本人の芸術「日本画」で釈尊の生涯を語り掛け、感動を与え続けて いる。まず他に例のない、稀有な民間人により成し遂げられた戦前の国際文化交流を象徴する日本美術の記念碑 でもある。 我が国の日本画の在外文化財として、またインド仏教聖地サールナートの歴史を、日本画を通して観光的、宗教 的価値に高めるモニュメント、日印の文化交流のシンボル、世界の人々と芸術文化の国際交流を進める上でも重要な美術品、日印にとっての文化遺産であることなど、保全活動を支援することは意義深いことと考える。 今後、初転法輪寺との信頼関係を頼りに、仏教関係者、日印文化交流団体や心ある方々に広く呼びかけ、日本、 日本人の責務として、日本の文化財修復技術による「落剝止め」作業、今後の保全・修復のための運動を成功さ せたいと考えている。