【仏教再興に尽くしたダルマパーラとは】
サールナートの初転法輪寺(ムーラガンダ・クティ―・ビハラ)は、インドの仏跡再建と世界宗教としての仏教再興に尽力したダルマパーラによって設立され、ダルマパーラは本堂に「釈尊一代記」壁画を描いてもらうために日本人画家を招聘しました。
1903年(明治36年)に発足した日印協會で、大隈重信、渋沢栄一という幹部や財界人等139名の会員名簿の中にダルマパーラ(カルカッタ)の名もあります。この14年前の1989年(明治22年)にダルマパーラは初来日しましたが、後に日印協會の役員となる高楠順次郎博士(仏教とインド学の研究家)と知遇を得るなど、多くの日本の仏教関係者と交流を深めました。ここではダルマパーラとはどのような人物で、日本との関係はどのようなものだったのかを紹介します。
ダルマパーラは1864年に生まれましたが、ダルマパーラの生まれたセイロン(スリランカ)はインドと同じように大英帝国の支配下にありました。セイロンのシンハリ族の人々は伝統的な仏教を蔑ろにし、母語シンハリ語を話すことを嫌い、子供たちをミッション・スクールに通わせました。ダルマパーラの両親も長男にDon Davidと名付 け、5歳の時にミッション・スクールに入学させました。Don Davidは利発で勉学に励む優秀な生徒でしたが、そんな時にキリスト教徒と仏教徒との衝突があったのを境に彼はミッション・スクールに通うことを止め、パーリー語と仏教を学び始めました。そして仏教以外には普遍的福祉を実現することはできないと確信し、反キリスト教・反大英帝国の聖戦を始めました。父親のこだわりに従い、1884年に一旦は植民地政府の教育省に勤務しましたが、直ぐに職を辞し、名前をアナガーリカ・ダルマパーラ(Anagarika Dharmapala)に変えました。
アナガーリカ・ダルマパーラの名前の秘密について説明します。An とAgarika ですが、An は「否定」、Agarika は家持ち(家長、世帯主)を意味するので、「家がない人」です。同様に、DharmapalaはDharmaとPalaの二つの語からなり、Dharma(真実)はゴウタマ・ブッダの教えのこと、Palaは保護者、救済者の意味なので、アナガーリカ・ダルマパーラは「家を棄て仏陀の教えを守る人」を意味します。
ダルマパーラはオルコット協会で神智学に惹かれ、1883年にはマドラス(インド・タミールナド州チェンナイ)を旅行、1889年に日本を訪問しました。神智学協会はキリスト教に圧迫されるスリランカ仏教の復興を支援して大きな成果を上げおり、会長H.S.オルコット大佐(米国人)の名声は日本にまで届き、キリスト教徒の攻勢に危機感を抱く日本仏教界がオルコット会長を日本に招聘、ダルマパーラも随員として初来日しました。パーリー語で「三帰依五戒」を唱える白人仏教徒に京都・知恩院の満場の観衆は度肝を抜かれたそうですが、神智学協会の演説会は全国33都市で合計76回開催されました。
この時、ダルマパーラは日本の寒さのために体調を崩し長く病床に伏しましたが、若き日本人仏教徒・高楠順次郎が熱心に看病し、二人は終生変わらぬ友となりました。ダルマパーラ25歳、高楠23歳の時です。翌年1890年にマドラスで開催された神智学会に参加したダルマパーラは、インドで仏教復興の仕事をスタートさせました。その後のダルマパーラの活動は実に精力的なものです。
1891年(明治24年)1月20日に、2人の日本人(釈興然と徳沢智恵蔵)とともにバラナシを経てインド巡礼の最初の訪問地サ ールナート(鹿野苑:仏陀が初めて説教した場所)に到着。サールナートは荒れ果て、ダメーク・ストーパも破損が進んでいました。22日に、仏陀が悟りを開いた地ブッダガヤの荒廃を見て涙し、ブッダガヤ再興を胸に秘めてスリランカに戻ります。同年5月にインドにおける仏跡再建と仏教再興を期して大菩提会(マハ・ボディ・ソサイエティ)を設立、同年8月、大菩提会の名目でカルカッタに(小さな)土地を取得し、大菩提会の本部を設置しました。 写真:ダルマパーラ、ダメーク・ストーパ(仏舎利塔)
【日本人画家に壁画揮毫を要請】
二度目の訪日は1893年(明治26年)、米国シカゴで開催された世界宗教会議の帰路、ハワイを訪問後に来日しました。仏教界を代表して参加した世界宗教会議におけるダルマパーラの講演は大成功を収め、ハワイでも大歓迎を受け、日本ではダルマパーラ持参のブッダガヤの石仏が東京芝の天徳寺で展示され衆目を集めました。三度目は、1902年(明治35年)4月ですが、この時に平井金三や桜井義肇(いずれも日印協會評議員)とともに日印協會設立に尽力し、これが前述のダルマパーラが日印協會会員になった理由です。そして四度目の訪日は1913年(大正2年)ですが、二回目、三回目の訪日時に比べるとその時ダルマパーラは冷遇されたと言われています。日本の仏教界は明治中期~後期の革新的な仏教運動が廃れ、ダルマパーラの受け皿が無くなっていたのだそうです。それでも、ダルマパーラは日本各地で、欧米の排日の風潮を批判し、日本称賛の姿勢を示し続けたと言われます。
ダルマパーラは1906年に、後に初転法輪寺(ムーラガンダ―・クティ・ビハラ)を建設することになる土地を購入します。その後、1914年に英国植民地政府の圧力により、ダルマパーラはカルカッタに5年間監禁されました。1920年にインド遺跡発掘調査団が設立され、各地(アンドラ・プラデシュのナガルジュナ・コンダや西パキスタンのタキシ―ラ等)で仏教遺跡が発掘されましたが、ダルマパーラは遺跡の保存をインド政府に願い出ます。大菩提会が遺跡と発掘した遺物を保管するために適切な僧院を建設することを条件に許可されます。1922年に、インド・ウッタル・プラデシュ州知事はサールナートに初転法輪寺(ムーラガンダ・クティ―・ビハラ)の建設を認めますが、インド植民地政府はダメーク・ストーパに近接しすぎていることを理由に建設は許可されず延期されました。ようやく1926年に、遺跡発掘調査団の総責任者が当該の場所に寺院建設することを認めたために、10年以内の建設を目指して工事を開始されました。
1931年(昭和6年)11月11日に初転法輪寺(ムーラガンダ・クティ―・ビハラ)が完成。インド政府遺跡発掘総責任者はブッダの聖なる遺物を大菩提会に寄贈。落成式典には世界の仏教国から5万人以上の人々が集まり、後にインド共和国初代首相となるジャワハール・ラル・ネルー夫妻も参列しました。
そこで、ダルマパーラは日印協會(カルカッタ日本商品館)を通し日本政府に「釈尊一代記」の壁画揮毫のために日本人画家の派遣を要請します。インドで衰退していた仏教と仏教芸術が日本には存在することをダルマパーラはよく理解していたことによります。
【野生司香雪とダルマパーラ】
要請を受けた文部省は、仏教学者の高楠順次郎博士等と協議し、その結果、渡印経験もあり仏教美術に通じ、また日印協會とも縁の深い桐谷洗鱗画伯が選ばれました。ところが桐谷は渡印前の1932年(昭和7年)7月に急逝してしまいます。そこで、東京美術学校ならびにインド・アジャンタの石窟壁画の模写などで桐谷と縁のあった野生司香雪が後任として選ばれてインドに赴くこととなりました。
野生司香雪は桐谷の助手であった河合志宏と通訳として長男・野生司義章(一高1年生)を伴い、1932年11月25日カルカッタに到着しました。カルカッタで香雪は詩聖ラビンドラナート・タゴールを訪問、またアジャンタ石窟模写の仲間であった旧知のムクル・デー(当時カルカッタ官立美術学校校長)にも協力要請、日本領事主催のカルカッタ日本倶楽部での歓迎会の後12月20日にサールナート入りしました。
1933年1月16日に、仏僧になる得度式のために初転法輪寺を訪れたダルマパーラは、香雪揮毫の「降魔成道」の図を見て、これがアジャンタ洞窟の壁画に匹敵する規模で、また描かれた絵の素晴らしさを称賛したと言います。4か月後の4月29日ダルマパーラは69歳で逝去しましたが、後年になって香雪はダルマパーラにせめて「降魔成道」だけでも見てもらえてよかったと述懐しています。
写真:タゴールと野生司香雪、初転法輪寺の「降魔成道」の図
【世界宗教としての仏教】
ダルマパーラの活動を支えた仏僧の一人は、インド共和国初代法務大臣ビームラーオ・アンベードカル博士(*注)に「仏陀の教え(ダンマ)」を説いた方です。アンベードカル博士は1956年12月6日65歳の時に、波乱に満ちた生涯の幕を閉じますが、その数カ月前に仏教に改宗します。その時博士とともに数十万人の人々が仏教徒になりましたが、アンベードカル博士に従って改宗した人々のことを新仏教徒と言います。このようにダルマパーラは現代インドの仏教界に大きな足跡を残していますが、そのインド仏教界は今、日本人僧・佐々井秀嶺師により導かれております。ヒンズー教と仏教はともにバラモン教を祖としており、ヒンズー教は「仏陀はビシュヌ神の8人目のアバター(化身)である」と言い、仏教を理論的に取り込んでしまっているかのようですが、むしろ仏教の普遍性はインドを越えてアジアや欧米にも広く認知されています。昨今、インドは世界の中で存在感を増し、インド人は世界各国の様々な分野で活躍しています。まさに「最後の大国」として羽ばたこうとしておりますが、2500年前にインドで興った仏教は世界宗教として、これから世界で活躍するインド人にとってその活躍の場が大きくなればなるほど大きな意味を持つのではないかと考えられます。
(*注)「現代インドの巨人:アンベードカル博士」(2018年6月8日に上田高校65期ホームページにアップした拙稿を参照ください)http://ueda65ki.sakura.ne.jp/NEWS/Miyahara_Essai1806.pdf
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