「ダルマパーラと仏教復興運動」
野生司香雪と香雪の描いたサールナート初転法輪寺(ムラガンダ・クティ・ヴィハラ)の釈尊一代記の壁画について語る時に、その時代とその時代の人々について考えてみる必要がある。第一に、インドにおける仏教再興に尽くしたダルマパーラ居士について知ることは必須であるが、インド大菩提会発行の「アナガーリカ・ダルマパーラ:仏教の復興(Angarika Dharmapala: The Revivalist of Buddhism)から、ダルマパーラを紹介する。インド大菩提会創立125周年を記念してBhikshu Dharmarakshitaの著作をGyanaditya Shakyaが編集・翻訳したものである。(それを宮原が抄訳・仮訳した)
《はじめに》
ボディサッツバ(菩薩)・アナガーリカ・ダルマパーラは現代インドと西側諸国において仏教を復興した偉大な人物として知られ、大菩提会を創立し仏教の布教に尽力した。彼は多次元的な性格を有し、彼の貢献は仏教世界では画期的な出来事であり、彼の名前は仏教の歴史においてずっと金字で記されるであろう。
インドにおける仏教の復興と伝播について語るとき、アナガーリカ・ダルマパーラの素描が我々の心に反映され、彼のダンマ(真理)を追究する熱心な性格が蘇る。彼はインド大菩提会を創立し、ゴウタマ・ブッダのメッセージを世界中に広げるうえで極めて重要な役割を果たした。彼はスリランカ人であったが、彼の心は世界中の人々の福祉に貢献した。彼は人生をサールナートやブッダガヤ等の仏教の聖地の復活と仏教復興に捧げた。
この本は、インド大菩提会125周年を記念して発行されることとなった。この本の出版によって仏教学徒や信者が、アナガーリカ・ダルマパーラの人生からインスピレーションを得られるのではないか、それはダンマ(真理)に確立され、親愛、思いやり、普遍的な同胞愛、そして無私の奉仕の価値観を人間の中に蘇らせ脈動させるのではないでしょうか。
バンテ P. シーワリ―師、インド大菩提会 ムラガンダ・クティ・ヴィハラ(初転法輪寺)
《序文》
ボディサッツヴァ・アナガーリカ・ダルマパーラの人生と貢献について語る前に、その名前の秘密について説明する。
An とAgarikaだが 、An は「否定」を意味し、Agarika は家持ち(家長、世帯主)を意味するので、「家がない人」を表す。同様に、DharmapalaはDharmaとPalaの二つの語からなる。Dharmaは「真実」を意味し、Dhamma と同義で、ゴウタマ・ブッダの教え。Palaは保護者、保存するひと、救済者の意味なので、ダルマパーラは「仏陀の教えを守る人」の意。(訳注:Anagarika Dharmapala は「家を棄て仏教を守る人」ということ)
現代インドにおける仏教復興について語る時は、アナガーリカ・ダルマパーラの役割を思い起こす。彼はインド大菩提会の創設者であり、仏教復興者として非常にユニークな活動をした。彼は著作者、自由の闘士、考古学者、編集者、宗教指導者、社会改革者、演説者、聖者(仏教者)と多くの側面がある。活動的な性格で仏教と人間性を希求する活動は世界中に知れ渡っているが、ダルマパーラはインスピレーションの源泉として多くの人々に影響を与えている。多くの仏僧が、ダルマパーラの影響を受けて現代インドにおいて仏教復興と布教に貢献した。
現代インドにおいて、パーリー語と仏教文学において比類のない学術研究をしたことでDr. Bhikshu Dharmarakshitahaが知られているが、彼の著作はインドにおける仏教の意味を現代に関連付ける上で重要な役割を果たした。いくつかある彼の著作の中に仏教に貢献したアナガーリカ・ダルマパーラの人生について書かれた本がある。1964年にインド大菩提会(サールナート)が発行したものである。この貴重な本をインド大菩提会・初転法輪寺(Mulagandha Kuty Vihara)のBhadanta P. Seewalee Thero(シーワリ―師)が2011年に再出版することになり、2016年にシーワリ―師はこれを英語に翻訳するように勧めてくれた。
《アナガ―リカ・ダルマパーラ:仏教の復興者》
インドにおいてゴウタマ・ブッダと教義(仏教)を人々に広め、何百万人の人々が三宝(仏陀、法、僧)を守ることを受け入れるようになったのは偏にアンガーリカ・ダルマパーラの尽力によるものである。彼は仏教に全ての人生を捧げ、文学、哲学、文化等の分野において仏教をインドの人々に広めた。インドに止まらず、スリランカ、ビルマ(ミャンマー)、日本、タイ、欧米にまで彼の貢献は及んでいる。彼は生まれたスリランカを飛び越え、主にインドを主たる活動の場所とした。人生、富、勤労を人類愛のために犠牲にして活動した非常に珍しい人物である。肉体はスリランカ人だが、普遍的な福祉を探し求めた彼の心は、特にインドとインド人に向けられた。彼は仏教復興のためにサールナートやブッダガヤ等の仏教の聖地の復興のために人生を捧げようと決心した。
アナガーリカ・ダルマパーラは、1864年9月17日にスリランカの豊かな家庭に生まれた。彼の祖父母は1885年に南スリランカのMataraからコロンボに移住した。コロンボでは、有名な家具商人となったが、その頃スリランカはキリスト教が盛んになり、シンハリの人々は衣服、名前などを西欧文化の影響を強く受けた。
英国の圧力と魅力の所為で、シンハリの人々は民族的で伝統的な仏教を蔑ろにし、文化、名前、宗教、服装を嫌い始めていた。彼等は母語のシンハリ語を話すことを嫌い、スリランカは西欧化しキリスト教に魅了され、子供たちをミッション・スクールに通わせることを自慢した。アナガーリカ・ダルマパーラの両親もまた西欧化の影響を受けなかったわけではなく、長男(ダルマパーラ)にはDon Davidと名付け、5歳の時にミッション・スクールに入学させた。Don Davidは利発で勉学に励む子供で、キリスト教学において優秀賞を受賞した。その後、彼は聖ベネディクト校からKotteミッション・スクール、聖トーマス校に通った。その頃キリスト教徒と仏教徒との間で衝突が起こり、彼はミッション・スクールに通うことを止める。それを契機に彼はパーリー語を学んだ。このようにDon Davidはミッション・スクールで聖書を教えることを学び、文学・文化闘争を経てキリスト教の教育を止め、Pali Tipitaka Literatureを学び始めた。仏教に関する深い知識を得て、仏教以外に普遍的福祉を実現することはできないと確信し、反キリスト教・反英国政府の聖戦を始めた。そして、彼は多くの熱意をもって大胆に、西洋の文化と政府を激しく攻撃した。父親のこだわりに従い、1884年に一旦は教育省で事務員として勤務するが、このシンハリ族の勇者はただの公務員であることに飽き足らず、 ある日彼は職を辞し、彼の名前をDon David Hewavitharana からAnagarika Dharmapalaに替え、彼の人生を英国人から拷問を受けたシンハリ族の人々の福祉のために捧げる決心をした。オルコット協会で、彼は神智学に惹かれ、1883年にはマドラス(インド・タミールナド州チェンナイ)を旅行、1889年には日本を訪問した。1890年にマドラスで開催された神智学会に参加したダルマパーラは、インドにおいて仏教復興の仕事をスタートさせる。スリランカではじめられた初期の革命的活動は歴史的に重要なものである。彼の母、父、兄弟たちは非常に協力的で、「スリランカの自由」にHewavitharana家の名前は特筆されるものである。
ダルマパーラは、美しい家の形をしたバスを仕立てて、村から村を巡回、講演し大衆の関心を喚起した。バスは太鼓を備えており、村が近づくとドラムが打ち鳴らされ、何百人と言う人々が集まり、そこで彼は演説をした。演題は、「英国を排除し、子供たちをミッション・スクールに入れるのを止めよう」、「英国の服飾をボイコットし、シンハリの絵画・彫刻・工芸品を復活させよう」といった内容。アナガ―リカ・ダルマパーラによるこのような演説はスリランカの人々に新風を巻き起こし、彼らに彼らの英国追従の生活様式の間違いを気付かせた。
例えば、シンハリの女性はポルトガル風の衣装を身に纏うようになったが、ダルマパーラは彼らを叱り、彼の母親が着用していたインド風サリーを着るように勧めた。今ではシンハリの75%の女性が国民服(サリー)を着ている。また、ダルマパーラはアルコールの摂取とノン・ベジタリアンの食事に反対し、それらを消費することは道徳的価値観を破壊すると説き、人々をノン・ベジタリアンからベジタリアンに転換させた。
彼は自由の闘争に身を投げ出し、英国支配に激しく抵抗した。彼はシンハリの青年達が英国人に対して抱いていた神への恐れのような気持ちを彼らの心から一掃させた。彼はいつもイギリス人を“パラスダ”と呼んだ。それは安っぽい白いボディを意味する。 このため彼らはダルマパーラを嫌い、そしてそのため彼はスリランカで軟禁生活を送らなければならない時もあった。アンガーリカ・ダルマパーラは国産品の成長を支持した。シンハリは外国製品を使用すべきではない、地場の工芸品を使い地域ビジネスを振興すべきだと演説の中で説いた。
スリランカにおける仏教の発展のために、アンガーリカ・ダルマパーラは多くのことを為した。仏教巡礼の興隆、仏教団体の創設、仏教教科書や仏教新聞の発行等々を完成させながら、彼はインドへの旅について考えた。
《アナガーリカ・ダルマパーラのその後の活動》(この本の記述を元に時系列的に紹介する)
1890年12月:インドに出発(マドラスで開催された神智学会に参加)。
1891年1月20日:インド巡礼の旅として最初の訪問地サールナートに着く。サールナートは荒れ果て、Dharmarakaji Stupahaは消滅しており、Dhammeka Stupaも破損が進んでいた。
1891年1月22日:ブッダガヤに着く。仏陀が悟りを開いた地ブッダガヤの荒廃を見て涙する。ブッダガヤ再興を秘めてスリランカに戻る。
1891年5月31日:大菩提会を設立。
1891年7月10日:4人の仏教学徒(比丘)とともにブッダガヤを再訪し、ここで活動を開始する。同時に、スリランカ、中国、日本、チッタゴンの仏教徒が参加するイベントを企画する。ベンガルの日刊紙に活動が紹介される。
1891年8月28日:大菩提会の名目で(小さな)土地を取得し、カルカッタに大菩提会の本部を設置。ビルマを訪問し、大菩提会の支部を設置、アラカンから2人の僧侶にブッダガヤに招く。シンハリの僧Candajajotiと二人のビルマ僧がビルマ王Teeboの建造した古い僧院に住んだ。ブッダガヤのヒンドゥー教徒は仏僧がここに居住することを好まず、両者の間に衝突が起こる。この衝突で仏僧が重傷を負い、アナガーリカ・ダルマパーラがカルカッタから駆け付け、和解をする。
1892年:月刊誌「Maha Bodhi」の発刊、World Parliament Religions(世界宗教会議)が米国シカゴで開催され、アナガーリカ・ダルマパーラは仏教徒を代表して講師として参加する。そこで彼は知的でダイナミックな演説で、西欧の参加者に仏教の素晴らしさとその教義を説き、国際的な仏教学者としての名声を得た。その帰途、彼はホノルルを訪れたが、そこには多くの支援者が彼を港に出迎えた。その中にその後のアナガーリカ・ダルマパーラにとって重要な人物との出会いがあった。それがMary Elizabeth Foster夫人である。彼女はカルカッタの大菩提会に10年間にわたり継続的に多額の寄付(財政支援)を行った。1903年以降も、毎年3000ドルを寄付し、そのお陰で大菩提会の活動は活発化した。同年、アナガーリカ・ダルマパーラは日本経由でスリランカに帰国したが、その旅行中に多くの重要な講演をし、ブッダガヤに帰った。ブッダガヤに土地を購入し仏教徒のコロニーをつくろうとした。タイを訪問し女王と王女から資金提供を受けるなどダルマパーラは努力したが、ブッダガヤでの土地購入は進まなかった。
1901年:アナガーリカ・ダルマパーラは、サールナートに土地を取得。母のMallikaが600ルピーを提供した。
1904年:その土地に小さな家を建てた。そこから彼は、米国(4回)、ヨーロッパ(英国、スイス、フランス、イタリア、ドイツ)、日本、ビルマ、タイ、シンガポール、ジャワ、中国、満州、韓国等々の世界各国に旅行し、仏教のメッセージを伝えた。インドにおいては、カルカッタ、サールナート、ブッダガヤ、クシナガール、ルンビニなどを何回も訪ねた。
1906年:コロンボに設立された大菩提会印刷所が、仏教教科書(仏典)とともに週刊誌を発行した。その頃、後に初転法輪寺(Mulagandha
Kuty Vihara)を建設することになる土地を購入する。彼は、いずれ技術大学を設立したいと考えていた。サールナートの人々に教育の機会を与え、仏教や文化・哲学に親しんでもらいたいと考えた。
1914年:英国人は第一次世界大戦の戦災を恐れ、自由主義を押さえようと最大限の圧力をかけてきた。ダルマパーラもカルカッタに5年間監禁された。コロンボで出版されていた週刊誌は発禁処分、家族は様々な方法で弾圧された。
1920年:Dharmarajika Viharaの建設(1891年にマドラスのクリシュナ地区から発見した仏陀の遺物を元にしている)。
その頃に、インド遺跡発掘調査が設立され、アンドラ・プラデシュのナガルジュナ・コンダや西パキスタンのタキシ―ラ等でゴウタマ・ブッダの遺跡が発掘され、ダルマパーラは遺跡の保存をインド政府に願い出る。大菩提会が遺跡・発掘した遺物を保管するために適切な僧院を建設することを条件に許可され、ダルマパーラはMary Elizabeth Foster夫人に財政支援を依頼。
1921年:無料小学校Maha Bodhi Punya Pathashala Primary Schoolを設立。学校は後に発展し、Maha Bodhi Inter College, Maha Bodhi J.T.C.技術大学、サールナート・ダルマパーラ大学となっている。
1922年:ウッタル・プラデシュ州知事は初転法輪寺(Mulagandha Kuty Vihara)の建設を認めるが、インド政府はダメーク・ストーパに近接しすぎていることを理由に建設は延期された。
1923年:Mary Elizabeth Foster夫人の寄付金の管理など大菩提会の運営体制を整える。
1924年:ダルマパーラはカシミール、パンジャブを訪問。
1925年:仏教に入門する若者を育成する学校設立(8か所)。病気治療のためにスイスを訪問、その後4回目の訪米。
1926年:大菩提会(ロンドン)を設立。British Buddhist紙を発行。ブッダガヤに宿舎を建設。
1926年:遺跡発掘調査団の総責任者が当該の場所に寺院建設することを認める。Foster夫人の支援やインド政府の補助、ダルマパーラ自身が出資、10年以内の建設を目指して工事を開始。
1928年:仏教布教のためにスリランカ僧をロンドンに派遣。
1929年:ダルマパーラの活動を支援した弟が死去。
1930年:大菩提会(アメリカ)を設立。American Buddhist紙を発行。12月22日、Mary Elizabeth Foster夫人が死去。フォスター夫人の寄贈した基金を元にダルマパーラ基金を設立。その後、ダルマパーラはサールナートに留まりMulagandha Kuty Viharaの仏様の膝の上で過ごすことを希望。
1931年11月11日:Mulagandha Kuty Vihara(初転法輪寺)が落成。インド政府遺跡発掘総責任者はゴウタマ・ブッダの聖なる遺物を大菩提会に寄贈した。落成式典には世界の仏教国から5万人以上の人々が集まり、後に首相となるジャワハール・ラル・ネルー夫妻も参列した。ダルマパーラは車椅子に座って式典に参列した。
1931年7月12日:叙階(得度)し、仏僧となる。
1932年:Mulagandha Kuty Vihara Library が完成。同年10月、野生司香雪が渡印。
1933年1月16日:Bhikshu(比丘) Siri Devamitta Dharmapalaとなる(得度式のために初展法輪寺を訪ねる)。その時に「降魔成道」の図を見る。同年4月29日:逝去。
1936年:香雪による「釈尊一代記」の壁画が完成。 (青字は宮原が追補)
《アナガーリカ・ダルマパーラが遺したもの》
今はアナガーリカ・ダルマパーラは存在しないが、彼の創設した大菩提会は象徴として存在し、インドだけでなく、スリランカ、ビルマ(ミャンマー)、タイ、米国、ドイツ、フランス、日本、シンガポール、イタリア、英国(ロンドン)、インド国内ではサールナート、ブッダガヤ、ガヤ、ニューデリー、ラクノウ、ナウガー、マドラス(チェンナイ)、ムンバイ、サンチ―、アジメール、バンガロール、カリンポン等に活動拠点を設け、僧院を建設し彼の望みに従って仏教を世界に広めてきた。 アナガーリカ・ダルマパーラの後、彼の後継者は、ダルマパーラと同じように献身的に活動し、仏教についての認識を広めるという高貴な志は、今も継続されている。
スリランカであるダルマパーラは、インド人にとっても理想的な宗教の伝播者であり、何千人もの人々が彼に感謝している。ビムラオ・アンベードカル博士(インド共和国初代法務大臣)に続いて多くのインド人が仏教に改宗したが、彼らはダルマパーラに連なっている。なぜなら、アンベードカル博士のダンマ(真理)の導師が、ダルマパーラによってインドに連れて来られた有能な弟子である。 アンベードカル博士だけでなく、インドの仏教学者や宗教家も、ダルマパーラとその生徒の贈り物なのである。 私たちは菩薩の資質に満ちた偉大な師アナガーリカ・ダルマパーラに心からの敬意を表するものである。
【日本を救ったスリランカのジャヤワルダナ大統領とダルマパーラ】
敗戦後の「東京裁判」でインド人パール判事がただ一人「日本無罪論」を展開し、日本を弁護したことは比較的よく知られているのに対して、1952年に日本が国際社会に復帰する前年9月6日にサンフランシスコ講和会議の場で「日本を救った」と言われる演説をしたセイロン(今のスリランカ)代表のジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ大蔵大臣(当時)の名前を知っている人は少ないです。自分の不勉強を棚に上げて申し上げるのも申し訳ないですが、中学や高校の歴史の授業で習った記憶がないです。最近のアンケート調査では「98%の日本人が知らなかった」と言っています。
講和会議は敗戦国・日本の独立を認めるかどうかを決する正念場でしたが、米国を中心とする講和条約案に対し、ソ連は日本独立を制限する対案を提出し、中華人民共和国(共産党政権)の出席を求めるなど講和会議は紛糾していました。そのような中を、ジャヤワルダナは「日本は自由であるべき、占領を解いて直ちに独立を回復させるべき」とし、「憎悪は憎悪によって消え去るものではなく、ただ慈愛によってのみ消え去るのである」と仏陀の言葉を引用しつつ、アジアにおける日本の尊厳ある立場を述べた上で、日本に対する賠償請求権を放棄することを言明しました。その時会場はしばらく静まり返った後に大喝采が続き、結果として数ヶ国を除き49か国が講和条約に署名し、日本はついに国際社会に復帰したのでした。ソ連の思惑は日本の分割統治であったと言われています。
後に第2代スリランカ大統領となるジャヤワルダナは、同じスリランカ人のダルマパーラが日本の仏教界・仏教徒と深い絆で結ばれていたことをよく承知しており、またジャヤワルダナ自身の経験からも日本や日本人が一方的に裁かれるべき罪人であるはずはないと認識していたことによります。日本人であるならばスリランカのジャヤワルダナ大統領に対する感謝の念を忘れることが出来ません。日本は明治中期~後期から、仏教文化を底流としてインド、スリランカ、他のアジアの人々と相互理解を深めてきましたが、この仏教と仏教藝術の交流がインド・サールナートに野生司香雪画が描いた「釈尊一代記」の壁画として実を結んでいるのです。
写真;若き日(22歳)のジャヤワルダナとサンフランシスコ講和会議での演説
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